理事長あいさつ

 「明治 l50年」部落問題を考える

                                                                                                                     理事長  松井 珍男子

今年は1868年 (明治元年)から数えて、150年目に当たります。東京遷都から150年であり、幕末の様々な事件の舞台となった京都にとっても感慨深いものがあります。京都府・京都市においても多彩な記念行事が計画されているようです。しかしそれらの取り組みの中で、身分差別・部落差別の視点からの取り組みは皆無でありましょう。そこで、ここでは,この明治150年は「部落問題」にとって、どんな歳月であったかを概観したいと思います。

まず1871年 (明治4年)8月28日、太政官布告第61号をもって、「穢多非人等の称廃せられ候条、自今身分職業共、平民同様たるべき事」という、いわゆる 「解放令」が発布されました。しかし、このいわゆる「解放令」に対し、この年より1874年にかけて 「解放令」反対を含む農民一挨が起こるなど厳しい差別が続きました。福岡や高知などでは部落大衆の家が打ち壊され、とくに美作(岡山)地方の一揆は「えた狩り」という残酷極まりないものであり、何十人の死傷者と何百戸もの家を打ち壊すものでした。これらは、明治政府の農民及び一般勤労者への収奪等が過酷である反動としての、部落大衆に対する差別と打ちこわしでした。

またそれだけではなく、「解放令」によって法律上形式的には平民となった部落民は、明治5年2月1日の戸籍制度の施行でも、身分的戸籍である「壬申戸籍」は「旧穢多」あるいは「新平民」などと記され、公文書の中でも差別が続きました。この「解放令」一遍のみで身分からの解放であるかのごとき幻想を与え、封建的な身分関係を廃止するための前提条件である市民的権利一就職の機会均等、教育の機会均等、居住の自由等の権利一を保障する行政的措置が何一つ行われず、実効が上がらなかったことが明白になっていきます。

時が移り、大正時代になっても部落民への差別は厳しく、ついに大正7年米騒動が起こり、米騒動に参加した部落民の多数が検挙されます。この米騒動こそが部落解放運動を誕生させる直接の動機となったでありましょう。

1922年 (大正11年)3月3日に京都・岡崎公会堂で全国各地から3000人の人々が集まって 「全国大平社」が創立されました。この大会では日本の人権宣言とも言われる 「水平社宣言」と「綱領」が採択されました。宣言では「水平社はかくして生まれた  人の世に熱あれ  人間に光あれ」と、高らかに宣されたのです。綱領では 「部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」「われらは人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進す」と謳い上げ、全く自主的な解放運動を構築していくこととなったのです。(現ロームシアター京都の中庭に水平社発祥の他としての記念碑が建立されています。)

そしてこの水平社運動は、全国に燎原の火のごとく広がり発展していきました。しかし、それにもかかわらず水平社初頭は、差別を観念として、その現象を追うにとどまるという弱さを待っていました。

明治・大正・昭和前半は、一貫して富国強兵の掛け声の下、軍事大国としてアジア諸国への侵略戦争に国民を駆り立てた時代でした。1945 年の敗戦まで厳しい国民生活が続き、部落解放運動にとっても厳しい状況を余儀なくされました。軍隊内での差別は誠に厳しく、1926年 (大正15年)福岡連隊内で差別事件が頻発し、その糾弾闘争をいわゆる「福岡連隊爆破陰謀事件」としてでっち上げられ、松本治一郎委員長ら数名が検挙され、翌1926 年には軍隊内の差別を撤廃せよと名古屋練兵場における天皇観兵式で直訴することも起こりました。戦前の解放運動は、いずれも差別を観念としていたところに共通点を待っていました。

1945年 (昭和20年)、日中戦争と太平洋戦争が我が国の敗戦によって終えることとなりました。それは満州事変に始まる15年戦争の終結であるとともに、日清戦争の勝利で台湾を植民地として手に入れて以来、半世紀に及ぶ帝国日本の崩壊でした。戦時体制の下、水平社の運動もできなくなっていましたが、敗戦とともに解放運動の再建が図られることになります。1946年 (昭和21年) 2月19 日、京都新聞ホールで部落解放全国委員会が結成され、翌20 日部落解放人民大会が開かれました。この会場も京都であり、部落問題・人権問題の聖地として全国の人々に強く刻まれることとなりました。

1948年 (昭和23年)1 月に松本治一郎委員長が参議院副議長に選出され、国会開会式に当たり天皇拝謁拒否、いわゆるカニの横ばい事件で、国民に身をもって差別反対を呼びかけました。

戦後の部落解放運動は、差別観念はそれだけが特別に存在するのではなく、部落の非常にみじめで非人間的な生活状態を生み出すところの経済が土台であることが明確にされてきます。しかし、この時はまだ、貧乏と差別とを統一して考えることが出来ませんでした。

そして、1951年 (昭和26年) に戦後の部落解放運動史に残る「オール・ロマンス事件」が、差別行政反対闘争として組織されます。この反対闘争により、差別の掘り下げが行われ、市民的権利の完全な保障を要求する行政闘争で初めて運動を軌道に乗せました。すなわち、京都市の部落に対する行政の停滞こそ、部落差別を温存しているとして差別行政反対闘争を展開したのです。市議会への請願闘争、本会議での同胞議員による徹底した市長への質疑は、市議会史上初めてのことでした。こうした闘いにより全国的に行政闘争が展開されていったのです。

1958年 (昭和33年)に全国的に闘われた「勤務評定反対闘争」では子どもたちの同盟休校という戦術で取り組まれ、《教科書無償》などの具体的成果を勝ち取ることとなりました。

1961年 (昭和36年)部落解放同盟第4O回記念大会において 「部落解放要求貫徹請願運動」が提起され、その年の9月に福岡から東京に向けて全国行進隊がスタートしました。この全国闘争の成果として1965年 (昭和40年)に「同和対策審議会」答申が政府に提出されます。この答申前文では「いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。」と述べ、「その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である。」と喝破したのであります。

1963年 (昭和38年) 朝田善之助氏が松本治一郎委員長の後任として第3代の委員長に就任しました。朝田委員長の指導の下、「同対審」答申完全実施要求聞争が組織され、全国的な闘いが展開されます。この答申の後、粘り強い運動の結果、1969 年 (昭和44年)「同和対策事業特別措置法」が成立・施行されました。これらにより国の責任で同和対策事業が本格的に取り組まれることとなります。この法律の施行により全国各地の部落において同和対策事業が各自治体で展開され、いわゆる住環境を中心として大きく進展し、子どもたちの教育環境の整備、若者たちの就業も以前と比べると進むことになりました。2002 年 (平成14年)の法の失効までの40年近くにわたる事業の結果、一部ではもう部落問題は解決した、今後は一般行政として対応していくとの方針で、同和行政の打ち切りが多くの自治体の方針となっていきました。しかし今なお厳しい部落差別の現実が存在し続けています。

とくに近年では、ネット社会の影の部分として「部落地名総鑑」などが流布され、部落の土地や結婚差別などに悪用されています。このような現実から一昨年国会で「部落差別解消法」が成立・施行されます。我が国の立法の中で「部落差別」という用語が使用されたのは初めてです。国権の最高機関である国会が部落差別の存在を認め、その解消のために立法が必要と定めたのです。これが明治I50年を迎える今日の我が国の実態です。四民平等を謳った明治政府の取り組みもこのように長い年月を経ても差別はなくなっていません。水平社の創立・水平社宣言から今年は96 年ですが、今もって《よき日》が到来していないのです。いかに人権を確立し差別をなくしていくことが困難な営みであるかを、物語っています。これからもこの現実をしっかり踏まえて、差別問題の解決の闘いを続けたいものです。

我が京都は、歴史上の様々な事件の舞台となってきました。そして一方では 「人権」を大切にする運動の発祥の地として、全国に発信してきました。明治150 年を迎える今年は単なる復古調のお祭り騒ぎにするのではなく、「人権」をキーワードとして様々な活動が展開されることを期待するものです。時あたかも今年、「朝田善之助記念館」が竣工・オープンいたしました。この記念館は、朝田善之助氏が80年の生涯を”差別と闘いつづけた歴史”がどんなに厳しい闘いであったかを知りうる多数の文献・貸料を集積しています。朝田善之助氏は独創的な理論家であり、優れた戦術家であり、常に部落解放運動の指導的中心人物として重要な役割を果たしてきた方です。多くの市民・学者・文化人・活動家の皆さんにご活用頂きたいと存じます。この記念館から明治 l50年を考えて頂くことを提案いたします。”死せるもの、生けるものをとらう”の言葉のように、朝田善之助氏から学ぶことに大きな意義があるのではないでしょうか。さらに今年は「世界人権宣言」が国連で採択されてから、70年の節目を迎えました。「人権」の視点からこの国の150年はどのような歩みをしてきたのか、そして今どこに立っているかをしっかり考えてみたいものです。

上田正昭顧問のご逝去を悼む

「朝田教育財団だより 第25号 2016年8月」より

朝田教育財団 理事長 松井 珍男子

上田正昭先生が3月13日に他界されました。

当財団において長年にわたって理事を務められ、昨年から顧問に就任いただき、多大なるご指導を賜ってきました。亀岡市における公務をお元気に務められた翌日のご逝去で、ご家族の皆様にとってはあまりにも突然のお別れであったことでしょう。享年88の大往生でした。

3月15日の葬儀通夜式に、朝田華美副理事長とともに永久のお別れに行ってまいりました。5月31日に亀岡市で行われた「上田正昭先生を偲ぶ会」には、900名を超える大勢の市民・関係団体・行政関係者などの皆様が参加されていました。当財団から井本武美理事、佐々満郎理事、笹原義廣理事とともに参列させていただきました。

上田先生は日本を代表する古代史の専門家であり、多くの著作を世に出されています。その日本の歴史の中で、賤民や被差別民の歴史に光を当て、その人々の人権の大切さを訴え続けてこられました。差別と人権の視点では、在日コリアンへの差別の問題をも鋭い目で追求されていました。上田先生の訃報を載せた地元紙のコラム欄では、「おおらかで暖かな眼差し。民の歴史見つめた上田正昭さん逝く。日本の良心だった」と書かれていました。この短い文章は上田先生の人間性を最も確かに表現した一文だと思います。

当財団主催の「第18回朝田善之助記念講演の夕べ」(2000年7月4日)で、上田先生は朝田善之助初代理事長のことを「同盟の運動方針に朝田さんの理論が全面に出たのは、部落解放同盟の第26回大会の運動方針ではないか。いわゆる朝田理論の三つの命題というものがそれでございます」「この朝田さんの理論が、戦後の部落解放運動の大きな柱になってきたことはいうまでもございません。もちろん今日の時点では、朝田さんの理論だけでは部落解放は前進するとは私は考えておりませんけれども、戦後、部落解放運動の歴史の中で朝田さんが第二代委員長として果たされた役割は誰がなんと言おうとですね、厳然たる事実としてその存在はきわめて大きかった」と語っておられました。

また、「朝田教育財団創立30周年の集い」(2011年7月18日)でも上田先生にご講演をいただきました。その中で朝田初代理事長のことを「なんと素晴らしいことをやられたなぁと。人材をどう育てるか。本当は政府が奨学金制度を拡大して、反差別の視点からも奨学金を支給すべきですが、30年の間、自力で教育財団は努力してきた」と高く評価されていました。上田先生のお話から、朝田初代理事長と上田先生は誠に強い絆で結ばれ、信頼関係が厚かったことが伺われます。

私と上田先生の出会いは半世紀以上前、立命館大学で「部落問題研究会」の顧問になっていただいた時からです。部落問題を学ぶ学生にとって、正しい歴史観を持たれた先生からの教えは心に染み入るものでした。そのころ、先生は鴨沂高校の教員であり、立命館大学では文学部の講師もされていました。部落問題にかかわっては「部落解放京都市研究集会」「部落解放北区研究集会」などでのご講演を複数回にわたってお願いしてきました。これらの集会では、平易な語り口で部落問題について市民の理解と共感を呼ぶようなお話をしていただきました。

時が経ち、上田先生のすぐれた才能を改めて知らされたのは、「世界人権問題研究センター」創設のとき(1994年)のことです。建都1200年記念事業として企画されたこの取り組みには激しい賛否両論があり創設までには上田先生ほか関係者の皆様が大変ご苦労されました。京都市役所に勤めていました小生も議会での激しい議論などを見聞きしていましたので、よくぞここまで頑張っていただいたものだと改めて上田先生への敬服の念を高めたものでした。往時のことを、先生は研究センターの機関誌で「この創設のプロセスには、デマもあれば中傷もあった。要求に応じた団体交渉もあった。山もあれば谷もあった、センターの軌跡である。その準備期間を加えれば、私にとっては20年余りの歳月となる」と回顧されています。まさに、上田先生はこのセンターの生みの親であり、育ての親でもあられました。先生は学術研究のみに終わることなく、世の中の矛盾と対峙しながら正しいことを成し遂げていくという素晴らしい活躍をされたのであります。研究センター創設から早22年あまりが経ちますが、この間の5部門にわたる研究の大きな成果は、創設前に予断を持って反対されていた方々の見方とは全く異なって、学際的にも高く評価をされることとなっています。

もう一つ記憶に残っているのは「部落解放運動への提言」(部落解放同盟中央本部、2007年12月)であります。当時は部落解放運動における「歴史的・構造的欠陥」の克服をめざされ、その提言委員会の座長に就任され、厳しいご議論をまとめられました。運動の社会的信頼を勝ち取るための心底温かな言葉を用いた提言でした。こんな難しい問題に対処できたのは、上田先生をおいて他には存在しなかったことでしょう。2002年の「同和対策事業特別措置法」の終了後、同和行政の根拠となる法律が存在しない状態が続いてきましたが、5月19日に「部落差別の解消の推進に関する法律案」が、自民、公明、民進の3党により共同提案され、今国会の会期末を迎えて衆議院での継続審議となりました。

上田先生は、人権問題、とりわけ部落差別にかかわって、多大な貢献をなされました。また、日本だけでなく、アジアにおける人権・差別の問題を研究されていました。広い視野で人権問題を考えるべきだと主張されてきました。先ごろ「ヘイトスピーチ対策法」が成立し、「水平社」と朝鮮「衡平社」との交流を示す資料が世界記憶遺産のアジア太平洋地域版に登録されることとなりました。さらに、「朝鮮通信使」の関係資料も世界記憶遺産に登録されようとしています。上田先生が長年にわたってご苦労されてきたことの一端が今ようやく日の目を見ようとしています。その先生が黄泉の世界に旅立たれてしまいました。人権・差別の問題にかかわっている私どもは、上田先生の指し示めされてこられた「差別のない、人権を大切にする、人権文化の豊かな社会」を実現すること、そして当財団の目的である「部落の青少年の高等教育を保障し、部落問題の解決に寄与する人材を育成する」ためにさらなる取り組み、努力していくことを霊前にお誓いします。

上田正昭先生、ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。合掌。

2016年6月8日

理事長就任のごあいさつ

「朝田教育財団だより 第11号 2009年7月」より

朝田教育財団 理事長 松井 珍男子

当財団の賛助会員をはじめ、ご高配、ご協力を賜っております皆様方に、深甚なる敬意と感謝を申し上げます 1981年に設立された当財団は、あと2年後には、30周年の大きな節目を迎えることとなりました。

さて、城守昌二理事長は7年間もの永きにわたり理事長職を務めてこられましたが、本年3月7日に開催された第 58回理事会にて一身上の都合により退任されました。そこで、理事の互選により小生が理事長に選任されました。この理事長職をお引き受けするに当たり、私自身は正直かなり躊躇いたしました。それは歴代理事長の錚々たる方々に思いをいたすとき、私ごとき浅学菲才の者が この大役を務められるのかという不安でいっぱいになったからでした。

初代の朝田善之助理事長 (1981-1983年)は部落解放運動の偉大なる指導者であり、当財団の創設者であられ、私の人生の師であり、私ごとき者をここまで育ててくださった大恩人であります。

二代目の大橋俊有理事長 (1983-1990年)は京都市教育長、公営企業管理者(交通局長)、文教大学学長などの要職を担われた大先輩であり、数々のご業績のある方でありました。とりわけ、1964年(昭和39年)に策定された「同和教育方針」は簡潔にして要を得た名文の方針であり、その後の京都市同和教育の根源的な方針として永く活かされてきました。

三代目の奈良本辰也理事長 (1991-2001年)は立命館大学名誉教授であり、日本の歴史学者の第一人者であられた方であります。部落問題を歴史学の立場から学問的に解き明かされたご功績は筆舌に尽くし難きものがある、著名なる大学者でありました。

四代目の井上清理事長 (2001年)は京都大学名誉教授であり、日本史の大家として、封建制と身分制から部落差別の理不尽性を学問的に明らかにされた先生でありました。そして、五代目の城守昌二理事長 (2002-2009年)は京都市教育長、京都市助役を務められた大先輩であります。京都市の教育人脈は、常に「同和問題」と真正面から取り組まれた方々であります。大橋先生、城守先生、籔本薫先生、桝本賴兼前市長、門川大作現市長、そして今わが法人で評議員をお務めいただている米田貞一郎先生、佐々満郎先生、﨑野隆先生ほか、同和教育の実践を誠心誠意に取り組まれてきた方々です。そのような大先輩、大恩人の後の大役を私自身ができるのか否か、かなり逡巡した次第です。

本来であれば、永く理事を務められてこられた上田正昭先生、朝田勝三副理事長にお願いしたいところでしたが、朝田副理事長より「貴方は親父 (初代理事長)との深い縁のある方だから」と強いお勧めもあり「中継ぎ役」を果たしていこうと決心し、お引き受けしたような次第です。昨年3月3日に 54歳という若さで黄泉の世界に旅立たれた朝田善三前事務局長は、いまわの際まで「会社のことより、教育財団のことが気がかりだ」と語っておられたとお聴きしました。財団設立以来、逝去されるまで、存在感溢れる事務局長として指揮され、ご祖父・朝田善之助氏の遺志の実現のために努力されてきた朝田善三さんの教育財団への熱き想いに応えるためにも、関係者一同は全力を傾注し、この財団の発展のために努力してまいります。

今日まで、皆様方のご賛助、ご支援を賜り、当財団は順調な運営を続けてくることができました。当財団の主たる目的である「奨学事業」は、返還奨学金とご寄付いただいた「賛助金」を財源に均衡の取れた奨学金貸与運営が可能になっております。「部落問題に関する啓発事業」は、研修会の開催、学習講座の開設なども計画通り実施でき、「朝田教育財団だより」も年2回のペースで発行しております。しかし一方で、新公益法人への移行、資料館開設準備とその財源確保の課題などを抱えております。これらにつきましては、役職員の衆知を集めて困難に立ち向かっていく所存であります。

現今の人権をめぐる動き、とりわけ京都市の人権行政の動向を見るとき、当財団の役割はますます重要性を増してきております。設立者・朝田善之助氏の遺志を大切に継承し、その目的達成のために努力してまいりますので、今後 とも当財団へのご理解、お力添えを賜らんことをお願いし、理事長就任のごあいさつとさせていただきます。

朝田教育財団 理事長 松井 珍男子

略歴
まつい いずひこ
1938(昭和13)年、和歌山県生まれ。
立命館大学卒業。
1961年、京都市役所入庁。
監査事務局長、民生局長、収入役などを歴任し、
2002年、副市長(助役)に就任。
2006年に退職。2008年秋の叙勲で瑞宝中綬章。
現在、
公益財団法人 朝田教育財団 理事長
一般社団法人 春秋会 理事長
学校法人 立命館 評議員(評議員会 議長)
京都市ペタンクブール連盟 会長
社会福祉法人 こころの家族 理事・評議員
京都 和歌山県人会 相談役
信楽カントリー倶楽部 監事 などを務める